こんにちは!本大好きの夫婦いちごバターと申します!
本記事の対象は以下のような方です。
- 村上春樹の『ノルウェイの森』を読み終えた方
そしてこの記事の対象の方々に以下のようになってほしいです。
- 『ノルウェイの森』の一解釈をもとに作品の理解を深められている
村上春樹を愛してやまない夫婦が『ノルウェイの森』を読んで解釈が難解だった思うところについて、自分たちなりの解釈をまとめていきたいと思います。
※最終更新:2026/2
いちごバターのご紹介

はじめまして、本好き夫婦のいちごバターです。
5年ほどの読書歴の中で、2人で500冊以上の本を読んできました。
特に村上春樹さんの作品は大好きで、物語を「自分たちなりの解釈」を大切にしながら読んでいます。
この記事では、『ノルウェイの森』の物語の一解釈をまとめていきます。
あくまで一読者としての感想・解釈ですが、作品をより深く楽しむきっかけとなれたらうれしいです。
『ノルウェイの森』の基本情報

【出版年】
1987年
(ヨーロッパ滞在中に執筆)
【概要】
暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。
僕は1969年、もうすぐ20歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。
限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。
【書籍構成】
| 順番 | タイトル | ページ数(文庫版) |
|---|---|---|
| 1 | 上 | 302ページ |
| 2 | 下 | 293ページ |
【難易度】
■■■□□(3/5点)
=文章は読みやすいのですが、物語がどこに向かっていくのか、それぞれの描写が何を意味するのかを解釈することが難しい作品です。
解釈
作品の主題
死は生の一部として存在している
性⇔死

この作品にはたくさんの死と、たくさんの性的なシーンが登場することから、死と性がテーマであると考えました。
“死”に関して言えば、主人公のワタナベは親友であるキズキを失っており、最終的に直子も失います。
直子は姉が自死しており、恋人のキズキも自死してしまいました。
寮メイトの永沢さんの彼女であったハツミさんも自死してしまいます。
そういった死は、生の対極にあるものではなくて、生に内包されるものであり、失ったものは死を抱えて生きていかねばならないということが一貫して描かれています。
一方で“性”描写も多く登場します。
ワタナベは登場する多くの女性と関係を持つシーンがあり、永沢も多くの女性を抱いています。
この”性”を”死”の対極にあるものと捉えることで、登場人物たちの状態が性描写によって隠喩されてることが見えてくると考えました。
ワタナベと直子
2つの死を抱えた直子の生きる意志を性描写によって隠喩

直子はまず姉を亡くしています。
その出来事以降、彼女の「生」には常に姉の「死」が内包されるようになりました。
また「性」に関しては、キズキと行為に及ぼうとしても身体が反応せず、心と身体が分断されたような状態になってしまいます。
そしてキズキの死によって心は完全に不安定となり、「性」はさらに困難なものになっていきました。
しかし東京でワタナベと再会し、二十歳の誕生日に、彼女は初めて身体が反応し、性行為に至ります。
レイコに対して「何かの加減で一生に一度だけ起こったことなの」と語ったように、直子は二人の「死」を抱えながらも、同じ喪失を知るワタナベに心を許し、その一瞬だけ「死」から遠ざかることができたのだと思います。
けれどもその経験によってかえってキズキの存在を強く意識してしまい、直子は再び不安定になり、療養施設へ向かうことになります。
施設でワタナベと再会した直子は、レイコに支えられながら、「生」に対して前向きになろうとしている様子がうかがえます。
草原やベッドでの行為は、彼女が少しずつ「死」から距離を取ろうとしている象徴のようにも感じられます。
また、幻影とも現実ともとれる「完全な肉体」の描写も、どこか健康的で生命力を帯びており、「死」を乗り越えようとする兆しを示しているように思えます。
しかしワタナベと前に進もうとすればするほど、キズキの死は彼女の中でより大きな存在となり、最終的に直子は抱えきれない「死」に飲み込まれるかのように、楽になる道を選ぶに至りました。
ワタナベとミドリ
ワタナベにより生きる意志を得たミドリと、直子を胸に抱えるワタナベの関係性を性描写によって隠喩

ミドリは母親も父親も脳腫瘍で亡くなっていて、喪失感を感じている中、ワタナベによって生きる意志を獲得した人物であるように思いました。
初めてミドリの家に行ったとき、近所で火事が起こり、彼女は「死んだっていい」と吐露し、「何もない」という歌を歌っています。
しかし、ワタナベと会う回数を重ねる中で、生きる意志が強まっているような印象が強まります。
ポルノな考えを口走り、ポルノ映画をワタナベと観に行くシーンもあります。
ミドリはワタナベと生きていきたいと感じ、性行為も受け入れるということを口にすると同時に、現在の彼氏との性行為はしなくなります。
一方で、ワタナベの心には直子の存在があり、ミドリとは最終的な行為には至りません。
これはワタナベがミドリと生きていくという意思が希薄であるからです。
最終的に生きる意志を獲得したワタナベ(後述)がミドリに電話をかけるシーンでノルウェイの森は幕を閉じています。
永沢とハツミ
永沢の強すぎる一人で生きる意志を性的奔放さで隠喩

永沢はハツミと付き合いながら多くの女性と性的な関係を持っています。
ワタナベも永沢の誘いで女性と関係を持ちますが、むなしいものに思えて辞めてしまいます。
これは、性を死の対局と捉えるならば、永沢の生きる意志が圧倒的に強いことを示唆していると思います。
しかしその生きる力は、永沢一人が生き抜くためのものであり、ハツミと生きるための意思ではないことが描写されています。
そんな永沢のことをよく分かっていたワタナベは、ハツミがいつか永沢に狂わされてしまうことを懸念し、別れを勧めていました。
結果、2人は結婚には至らず、ハツミは別の男性と結婚後、自死に至っています。
ハツミが死んだあと、ワタナベは永沢からの手紙をみて二度と手紙を書かなかったという文章があります。
これは、キズキを失ったからこそ知っている、「大切な人の死は生に内包される」というワタナベの感覚と、明らかにずれた文章にあきれてしまったことを表しているのだと思いました。
レイコ
ワタナベとレイコの性行為は生きる意志の交差を隠喩

レイコは虚言壁の少女により精神的におかしくなってしまったため、死を内包して生きているわけではありませんでした。
しかし、直子が死んだことによりワタナベと同じく、直子の死を内包して生きていくことになりました。
最後、ワタナベとレイコは猛烈に性行為をするシーンがあります。(終盤のこのシーンに違和感を覚えた人も多いのではないでしょうか、、?私たちも1周目はそうでした。)
性を死の対極に置くとしたら、この性行為のシーンは、ワタナベの生きる意志と、レイコの生きる意志が交差しているシーンだと思います。
直子と渡辺はキズキを失ってもうまく性行為が出来ず、最終的に直子は死に負けてしまいましたが、その三角関係との対比となるシーンでもあると思いました。
この性行為の後、ワタナベはミドリに電話をかけるに至っていますし、レイコも旭川での新生活を生き抜こうと誓ったシーンであると解釈しました。
【おまけ】 突撃隊
突撃隊の消失は前向きに内包される死を示唆?

名前が”突撃隊”ということで前向きに”死”に突っ込んでいく存在として何かを象徴しているのではないかと思いました。
彼は”性”(死の対局)とは無縁であり、早い段階で退寮していなくなってしまいます。
最後に蛍を残したことも突撃隊の儚い命を隠喩してるのではないかと思いました。
しかし、突撃隊のエピソードは直子にもレイコにもミドリにも楽しく受け入れられます。
突撃隊が死んだという描写はないですが、前向きに生に内包される死もあることが示唆されているように感じました。
