こんにちは!本大好きの夫婦いちごバターと申します!
本記事の対象は以下のような方です。
- 芥川龍之介作品に興味がある方
- 羅生門・鼻を読破しその解釈を確かめたい方
そしてこの記事の対象の方々に以下のようになってほしいです。
- 芥川龍之介作品を読んでみたいと思える
- 羅生門・鼻の解釈が一段深まる
2人で500冊以上の本を読破している本好き夫婦が芥川龍之介短編の解釈についてをまとめていきたいと思います。
※最終更新:2026/1(順次更新予定)
※ご紹介するのはあくまでいちごバターの解釈で必ずしも正しいものを提供するものではありません。
※本記事でご紹介する短編はすべて以下書籍に掲載されています。
羅生門

荒廃した羅生門は、社会の秩序や道徳が崩壊した世界を象徴しています。
老婆は生きるためという理由で死人の髪を抜き、その行為を正当化します。
下人はその論理を受け入れ、より強い立場から老婆を襲います。
この物語は、極限状況では善悪が容易に自己正当化へ変わることを描いています。
鼻

禅智内供(ぜんちないぐ)は長い鼻を自分の不幸の原因だと考えています。
鼻が短くなれば救われると思っていましたが、人々の嘲笑は消えませんでした。
苦しみの本質は外見ではなく、他者の評価に縛られる心にありました。
この作品は、欠点を失っても人は簡単には自由になれないことを示しています。
芋粥

五位にとって芋粥(いもがゆ)は、貧しい現実を生き抜くための希望でした。
利仁の厚意によって芋粥は容易に手に入りますが、その瞬間に憧れは意味を失います。
五位は満たされたはずなのに、かえって虚しさを覚えます。
この作品は、欲望が叶うことよりも、欲望を抱き続ける状態が人を支えていると示しています。
運

観音様は信心の深さによって人に運を授けますが、その内容の善し悪しまでは選んでくれません。
女は貧困から救われ、不自由のない生活を手に入れました。
しかしその過程では、殺害や盗みなど他者を犠牲にする行為を重ねていました。
この作品は、運を授かること自体よりも、その運を幸福と呼べるのかが重要であることを私たちに問いかけています。
袈裟と盛遠

盛遠(もりとお)の袈裟(けさ)への凌辱心によって、袈裟の夫である渡の殺害計画が持ち上がることが、この物語の核心です。
盛遠は誓言の場で、これまで辱めてきた袈裟から向けられた復讐の恐怖を感じ、計画を撤回できなくなります。
袈裟の盛遠への愛と悔しさや恨めしさ、渡への罪悪感、そして穢れた自分への自己嫌悪が絡み合い、事態は悲劇へと進みます。
そこに愛が介在していようとも、人は恐怖心や自己欺瞞といった利己性を優先してしまうことを、この作品は描いています。
邪宗門

本作は連載の中断により未完となっているため、作者が真に込めた示唆を読み解くのは非常に難解であると感じます。
物語は、摩利信乃法師(まりしのほうし)が持ち込んだ不思議な力が若殿の側近にまで浸透していく中、若殿自身は邪宗に対して憮然とした態度を貫く姿を描いています。
個人的には、親である大殿との性格や風流に対する熱意の違いが対比されていた点に注目しました。
この親子間の対比に加え、新たに「宗門」という視点から摩利信乃法師と若殿の対比を描こうとしたのではないかと考えています。
好色

この物語の核心的なメッセージは、義輔(よしすけ)と範実(のりざね)の対話に凝縮されていると感じました。
範実は、平中(へいちゅう)の奔放な女性関係が世間に迷惑をかけているとして彼を懲らしめたいと主張しますが、義輔はそれに対し、範実の感情は平中への嫉妬に過ぎないと指摘します。
義輔は、平中の振る舞いを「才がある故の不可避な行い」と肯定しつつも、羨望の対象である色好みが最終的に幸福になれるわけではなく、むしろ凡人であることこそが一番の幸せであると説きます。
物語は終盤、実際に平中が色恋の果てに無残な仕打ちを受けるシーンで幕を閉じ、この義輔の主張を裏付ける形で締めくくられています。
俊寛

琵琶法師が語り継ぐ俊寛(しゅんかん)の姿は、実体とは異なる虚構に満ちています。
そして都のがんじがらめの常識が必ずしも普遍的な正解ではないことに気づかされます。
島での暮らしは、都の空虚な喧騒や執着に比べれば、人間にとって本当に大切なものを見つめ直せる豊かな場所に見えるのではないでしょうか。
俊寛が最後にあえて島へ残ったのは、都の価値観で測られる「幸・不幸」の枠組みを飛び越え、田舎の静寂の中で自らの「真実の生」を全うするための選択であったと感じました。
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