記事概要
- 村上春樹の『1973年のピンボール』を読み終えた方
- 『1973年のピンボール』の一考察をもとに作品の理解が深められている

いちごバター
読書歴5年、村上春樹長編をすべて読んだ夫婦が、『1973年のピンボール』の解釈が難解だったところについて、解釈をまとめていきます。
あくまで一読者としての感想・解釈ですが、作品をより深く楽しむきっかけになれたらうれしいです。
1973年のピンボールの基本情報

【出版年】
1980年 / 2作目
【書籍構成(青春三部作)】
| 順番 | タイトル | ページ数(文庫版) |
|---|---|---|
| 1 | 風の歌を聴け | 160ページ |
| 2 | 1973年のピンボール | 183ページ |
| 3 | 羊をめぐる冒険(上) | 268ページ |
| 4 | 羊をめぐる冒険(下) | 257ページ |
【ポジショニングマップ】
現実的なシーンが多く、文学性が強い作品

(表の見方)
横軸:物語性⇔文学性
※大前提、村上春樹作品はすべての作品に文学性があります。その中で、どれだけ物語性があるかどうかを主観的に判断して位置を決めています。
縦軸:幻想的⇔現実的
※現実から逸脱した設定が多いほど、幻想的な作品として位置を決めています。
1973年のピンボールの考察
作品の主題
避けられない別れにどう向き合うか

『1973年のピンボール』の主題は、「避けられない別れにどう向き合うか」だと考えています。
作中では、直子、双子の女の子、スペースシップ、配電盤、恋人、故郷の街など、さまざまな別れが描かれます。
それらに共通しているのは、一度自分の人生に深く関わったものでも、やがて失われ、別れの時が訪れるということです。
本作は喪失そのものを描く物語ではなく、その別れと人がどのように向き合うのかを描く物語として読むことができます。
そして、その向き合い方の違いが、「僕」と「鼠」という二人の主人公を通して対照的に描かれているのです。
「僕」の別れへの向き合い方
別れに区切りをつけようとする

僕は、別れに区切りをつけようとする人物です。
作中で彼は、失われた恋人である直子を思いながら彼女の街を訪れ、かつて夢中になったピンボール台「スペースシップ」を探し続けます。
また、役目を終えた配電盤を埋葬し、突然現れた双子の女の子とも最後には別れを迎えます。
それらは失われたものを取り戻すための行為ではなく、別れを受け入れるための儀式として描かれています。
特にスペースシップとの再会後、彼がそれを手放す場面は象徴的です。
僕にとって大切なのは過去を取り戻すことではなく、過去にきちんと別れを告げることなのだと思います。
- 作中に登場する直子は、『ノルウェイの森』の直子か?また、前作『風の歌を聴け』の自殺してしまった元恋人か?
『1973年のピンボール』に登場する直子は、『ノルウェイの森』の直子ではなく、前作『風の歌を聴け』で「三人目の性交相手」として語られた自殺した元恋人である可能性が高いと考えられています。
根拠の一つは、『1973年のピンボール』で僕が「直子は消えた」と回想していることです。
前作『風の歌を聴け』では、僕の三人目の性交相手が首つり自殺したことが語られており、その女性の死は僕にとって大きな喪失として描かれています。
一方、『ノルウェイの森』は『1973年のピンボール』から約8年後に発表された作品であり、登場人物や物語世界のつながりは公式には示されていません。
「鼠」の別れへの向き合い方
別れに苦しみを覚えながらも、自ら別れを選ぶ

鼠は、別れに苦しみを覚えながらも、自ら別れを選ぶ人物です。
彼は恋人を残して街を去ろうとしながらも最後に会うことはできず、ただ彼女の家を遠くから見つめます。
そして関係を終わらせるためにあえて電話をせず、自ら「橋を焼いた」と語ります。
また、街を出る決意を固めながらも、そのことをなかなかジェイに打ち明けることができませんでした。
それだけジェイやこの街とのつながりは、鼠にとって簡単に手放せるものではなかったのでしょう。
その旅立ちは希望に満ちた出発というより、今の自分を縛っているものから離れるための決断として描かれているように感じられます。
僕が別れを見送り、受け入れようとする人物だとすれば、鼠は別れの痛みを抱えながら、自ら別れを選ぶ人物です。
